『後藤は思う』 Vol.3 2008年5月
『愛国心とナショナリズム』 
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 オリンピックの聖火リレーをめぐって中国の若者の愛国心をかき立てたのか、中国のナショナリズムが世界をにぎわせている。ことの善悪を論ずるつもりも、中国を賞賛も非難・批判するつもりもないが、グローバリゼーションの今後を考えるになかなか面白いなと感じたのでフィーリング的エッセイを書いてみた。

 そもそもナショナリズムって何なのだろう。そもそもこれは「外」に向かって発揮されるもののようである。うちに向かっての右翼的、左翼的な争いはあってもそれはナショナリズムとは無関係の装いをしているように思われる。
愛国心は、文字通りの意味は「国を愛する心」であり、内心の問題であるが、「国外」に発揮されるとナショナリズムとほとんど同義なのかなと思われる。それでは国内に発揮される愛国心があるとすれば、それは何なのだろう。

 愛国心といい、ナショナリズムといい、どうもこれは「国」「ネーション」「ネーション・ステート」「国民国家」というウエストファーリア条約以来の近代国家体制の問題のように思われる。
 「ネーション」にはそもそも「民族」という意味合いがあったはずだが、ネーション・ステート(国民国家)の成立で「国民」と一緒のものと擬制したところにむりがあって様々な問題につながっているように思う。

 中国はよくいわれるように多民族国家である。文字通りの英語とすればネーションズ・ステートであり、その総体としてのナショナリズムがあるとすればそれは「インターナショナリズム」になってしまう。何かおかしい。

 民族をひとつの文化としてとらえると、そこには愛郷心とか郷土愛というものがある。他の文化とは共存、すなわち相互のrespectレスペクトがあるか、もしくは衝突、すなわち紛争があるだけで「ナショナリズム」とは無関係のように思われる。
チベット問題はチベット族と漢族の紛争とみると、一国の国内問題であり内政問題だという中国政府の主張は、そもそもは多民族、ネーションズを一括りにしてネーション・ステートと擬制した近代国家体制に起因しており、中国だけに特有の問題というには無理がある。
 また最近では、内政問題でも民主主義や人権にかかわる問題には国際社会は介入すべしという、ユダヤ・キリスト教的アプローチ(?)というか、国連的アプローチ(?)、の是非の議論もからんでくる。

 多民族の近代国家がひとつにまとまるためには、多数および多くの民族が一致するものが必要で、米国の場合はそれが国旗であり、仮想敵なのであろう。
 中国も江沢民時代の反日愛国教育は、反日もさることながら、国内をひとつに纏め上げ共産党独裁を維持するための仕掛けのひとつだったのではないか。
 聖火リレーを契機に妙な(?)ナシヨナリズムの発揮につながり、反米、反仏運動につながっていくのは火種が小さなうちに消えてしまえば問題はなかろうが大きくなったら「仕掛け」の意図を超えて国内に逆流することが中国政府の懸念かもしれない。
米国の場合は仮想敵を求めての拡大主義がうまくたちゆかなくなると孤立主義に内こもるが、ピューリタンというキリスト教原理主義が力をもっているかぎりは多民族でも成り立っていくのかもしれない。もちろんその前に、アメリカインディアンという原住民族は実質ほろぼしてしまったあとのことではあるが。
 第二次世界大戦直後の日本の教育では、米国は人種の坩堝、メルティングポットとして一体性を誇って教えられていたが、ふたをあけてみると人種差別の国であった。だからこそ公民権運動がおき、いまは又、サラダボールという言い方で美しく装っているが、民主党のオバマの支持者の黒人牧師の発言では、決してサラダボールでもないようである。
 中国は、移民国家でもないし長い歴史もあり、多民族を抹殺して漢族支配をうちたてることはどう考えても無理のように思う。ペンタゴン・レポートは気候変動に伴い、2020年代には中国は内戦状況になると予測している。予測が当たれば日本は大変な被害を受けることは必至であり、中国が大国の傲慢さで無理を押し付けてくるのは困るが、崩壊されてもたいへんである。

 経済学では、国家の失敗、Failure of governmentsということがいわれている。グローバリゼーションが原因のひとつであろう。
グローバリゼーションの進展の中で世界的秩序を保つ仕掛けは何であろうか。世界政府の発想はあるとしても私には悪夢としか言いようがない。

 私はやはり企業のあり方自体を何らかの力で制約する必要が必須と思う。すなわち、お行儀の悪い企業は退場させ、お行儀のよい企業は後押しをする「事実上の強制力」が求められる。
それはどんな仕掛けが考えられるのであろうか。

 そこでCSR がブームのように唱えられるがブームはしぼむのは必定である。しぼませためないために透明性確保、CSR報告書、SRI(社会的責任投資)、PRI(責任投資原則)等々、さまざまな仕掛けが唱えられるがそれだけでは「事実上の強制力」とはなかなかならない。もちろんCSRの議論を深化させ、新しいビジネスモデルを作っていくことは地道だが重要な方策ではある。他方、欧州でのSRIの進展はさまざまな法的仕掛けの賜物である。  
 そうだとすると、もう一度、国家の再規定ということも必要になってこよう。このときの「国」は当然のことながら現在の「国」とは相当ちがったものにならねば、そもそも存在意義すら問題になろう。
21世紀、新しいビジネスケースが模索されているだけではなく、「国」についても新しいモデルが求められているが、それはどんなものであろうか。「大きくはない」、「中央集権ではない」、「パートナーシップ型」、etc.のキーワードは考えられるが、全体像もさることながら移行モデルの策定の方が重要にもおもう。

 今回は取り留めのないことを書きましたが、今後皆さんと考えてゆきたいことを述べたつもりです。
後藤敏彦
環境監査研究会代表幹事
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