書評: 『生命とは何か-複雑系生命科学へ(第2版)』
             金子邦彦著,東京大学出版会
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  今回の書評は,従来と趣を変えて,科学の根幹に係わるテーマを取り扱うものです.聞いただけで尻込みをする人もいるかと思いますが,御容赦下さい.
  この本のことは,2009年9月に開催された東京大学の「第16回・科学技術交流フォーラム」で知りました.私は以前「Molecular biology of cells(細胞の分子生物学)」を読んだことがあるのですが,その時から遺伝子学や生物学に抱いていた疑問のかなりの部分が,この本を読むと少し解明されたような気がしたので,今回書評として紹介させていただくものです.生命現象のこうした捉え方は,先日,科学技術振興機構のさきがけ研究の基調講演でも述べられており,今後の主流思潮となっていくように思われます.


  金子氏の主張を掻い摘んで言うと;
  「現在の分子生物学,そして「情報」を重視する現代社会では,シンボル側(キーワード:論理・離散的(造粒,オン/オフ)・遅い変数(パラメータ)・モジュール化・遺伝子型)からパターン側(キーワード:ダイナミック・連続的・速い変数・多自由度・表現型)を説明するのに重点がおかれている.シンボル側がパターン側をコントロールするという見方である.たとえば細胞の異なる状態はしばしば遺伝子の発現といった「記号系」と結びつけられて理解されている.進化においても遺伝子型の変化が表現型を変えるという方向に重点がおかれる.一方,金子氏の立場は,「論理的に」振舞うような記号系ではなく,複雑なダイナミクスに基本をおくものである.つまり,ダイナミックな振舞いのなかからの規則の生成を探り,そして全体の性質が各要素のなかに埋め込まれる仕組みを探ろうとしている.たとえばルールとパターンの関係についていえば,各部分から全体をつくる設計図を求め描写するのが今の主流の生物学であるが,金子氏はむしろ,安定した設計図がいかに自発的に生じるか
を考える.つまり,シンボル側からパターン側ではなく,パターン側からシンボル側への過程ないしは両側間の循環を重視する.」

本書の環境学への貢献としては,「種とは何か?進化とは?」という疑問に一つの包括的な理論を提供でき,生態学の解明に貢献することがあげられます.説明しますと,
  金子氏の問い;
  「生物の形質は連続的に分布していない.いろいろな生物が連続的にベターっと存在しているのではなく,いくつかの離散的な「種」に分かれていて,その中間は存在していない.これはなぜだろうか—これはダーウィンがすでに問うている.そして,彼の著書「自然選択,あるいは生存競争における好ましい種類の保存による種の起源に関して」(通常「種の起源」と略される)は,進化に関する考え方のすべてを決定づけた画期的書物であるにも係わらず,この問いへの答えは明確に与えていない.(だから種の起源にも答えていない.)1つの種が2つに分かれていく段階を考えよう.遺伝子はすこしずつしか変化しないと考えられるから,種が分かれ始めるところではすこしだけ遺伝子が違う2つの個体(ないしグループ)が共存していなければならない.遺伝子がすこししか違わなければ,その形質(表現型)も少ししか違わないと通常考えられる.そこで,そうした個体は同じ生息条件,栄養,餌(つまり生態的地位(ニッチ))をもち,互いに競合しあうだろう.すると,これらの個体が同じ場所にいて互いに影響しあっている限り,両者の共存は難しくなって,どちらか適応したほうが残ってしまうだろう.ではどのようにして,個体の集団が互いに影響しあいながら違う種に分かれていけるのだろうか.」


  金子氏の考え方は以下のとおりである.
(1) 通常の種では,遺伝子型も表現型もある(比較的狭い)範囲で分布している.この種が,環境変動や個体数密度の増加あるいは栄養の不足などのため,構成員同士で強く相互作用するようになったとする.すると表現型の分化が生じる.同じ遺伝子型をもった個体が異なるタイプの表現型の2グループに分離する.ただしこの段階では,各グループの子孫が親と同じグループに必ずしもなるわけではなく,違うグループに生まれることもある.
(2) この分離した2グループでは,表現型がますます異なるようになっていく方が,ニッチの競合が減るので,それぞれ増殖しやすいだろう.そこで両グループでは,別な方向に(表現型の変化の仕方を与える)遺伝子に変異が起きる方が,それぞれ子孫を残しやすい.すると遺伝子にはランダムに変異が起こっても,淘汰を経て,2グループの遺伝子は別な方向に向かっていく.つまり,表現型の違いが遺伝子型の差異に固定されていく.
(3) この結果,遺伝子型と表現型の1対1の対応関係が回復して,遺伝子型でも表現型でも異なる2種が分離する.各グループの子孫は親と同じグループに必ず属すようになり,種の分化が完成する.


  以上のような考え方は,細胞生物学に限られるものではなく,脳の認知過程や,社会の発展過程に応用できると指摘されている.ヒトの数が増すにつれ分化が始まり,階層構造をなす.さらに,この階層構造は(遺伝子型への固定のように)社会規範へと固定されていく.法律や倫理の起源もこの辺にあるのかもしれない.

  本書は社会科学系の人には難解かもしれない.理科系でも,常微分方程式と線形数学に慣らされたロートルには,こうした複雑系思想はやはりなじみにくいものがある.しかし,サンタフェ研究所などを源とするこうした思潮は,今後主流となっていくことが予想されるので,早めに対応することが望まれる.
  本書は3,600円とかなり割高であるが,内容は豊富であり,一読することを薦めます.
水谷潤太郎
日本上下水道設計株式会社
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

Copyright (C) 2007-2010 EARG , All rights reserved.